1987年 Air Jordan 2のカタログ広告
1987年というと、私が中学1〜2年ぐらいだったであろうか…。
バスケットボールの部活にだけ、頑張っていた頃か…。
少し前にも書いたが、初めて履いた”革のバッシュ”はAir Jordanだった。
*当時の画像が無いので拝借しました。
今でいう、Air Jordan 1 Chicagoカラー。
当時は、1とか2とかの呼び名は無い…。
Chicagoカラーなんて呼び名も無い…。
あれはマーケティングによるNikeの戦略だろう…。
少なくとも、1と2と3は後付けだったと思う。
因みに、Air Jordan 3はAir Jordan ‘88とも呼んでいる人もいた。
少なくとも、シリーズ化呼称されたのは、4の末期〜5の頃だと思う。
それより前は、Air JordanはAir Jordan…それだけ…。(笑)
当時、日本に展開されたカラーは、7パターンぐらいしか無かった気がする。
全体的に確かにスポーツ店で在庫があり、売れないバッシュだったが、周りは結構、1は履いている方が多かった。
北中のTさんは、黒赤=Banned
北西中のA君は、白ナチュラル
N先輩は、赤白黒=Chicago
全員が白赤メタリックを履いている学校もあった。
話は逸れてしまったが、私が未熟というのも、かなりあったのであろう…兎に角、Air Jordan 1を履けば捻挫…この繰り返し…。
3試合に1回は捻挫していた。(苦笑)
バッシュの買い替えを人生で一番考えた時期なのかも知れない…。
そんな時、Nikeのカタログ本でこんなものを見た。
今でいう、Air Jordan 2…。
当時は、Air Jordan Hi/Loという呼称…。
田舎いた私はスポーツ店に通ったが、店頭在庫は見た事は無い…。
私は懇意にして頂いていたスポーツ店のオーナーさんにお願いして、Hiカットの白黒赤=アウェーカラーを取寄せて貰う事にした。
店に来たら、電話をくれるとの事だった。
待てど暮らせど連絡は来なかった。
頼んでから3ヶ月後、連絡が来た。
Hiカットは確保出来たが…色が…無い…との事だった。
理由は、どの店も、売れると思い前のAir Jordan を大量に在庫を取ったが、掃けていない為、新しいAir Jordanを取る店も少ない為、日本のNikeとしても、そんなに個体を持っていないとの事だった。
並びに、次に日本に入って来るのは未定との事でもあった。
価格は18.600円だった。
まだ消費税とか無い時代だったが即決し兼ねた…。
話中にそれとも、ウチにあるこれにする…なんて…
ベビ革を使用したデルタフォース・スネイクを勧められたが、結局、新しいAir Jordan を取寄せて貰う事にした。
そこから3日後にまた、スポーツ店オーナーさんから連絡があり、夜、親に車を出して貰い取りに行った。
ホームカラーのAir Jordanであった。
手にした夜には枕元に置いて眺めていた気がする。
今、思うと変な奴だ…。(爆笑)
当然、翌日の朝練習で下ろした。
ミッドソールが、今まで履いていたバッシュより、柔らかかったので足の裏が極端に疲れなくなったのを今でも覚えている。
当然、捻挫も無くなった。(笑)
前作から、とてつもなく進化したバッシュ…。
それが、僕にとってのAir Jordan 2 評…。
そういえば、購入して、すぐに、この靴で怒られる事が凄くあった。
当時、皆履いていたバッシュは、靴側面にブランドマークが入っている靴しか無かった。
Nikeなら、スウッシュ…とか…。
この靴は背面のTPUパーツの上に小さくNIKEと入っているだけだったので、”どこのメーカーの靴か分からない”との事で、部活の顧問から、対外試合で履くのを3試合ぐらい禁止された。
だから、最初は練習しか履けなかった。
今思うと、変な話だ…。(爆笑)
Air Jordanが履けない時は、親戚から貰ったAir Force 2初期型を履いていたが重かった。
何はともあれ、当時、事情で日本では、あまり派手にマーケティングされていなかった靴…。
Air Jordan 2…。
この靴がブレイクするまでは、5の1990年まで待たねばならない…。
その当時の私には、当然知る由もない…。
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